最近感動したことと考えたこと。
国立西洋美術館で「北斎とジャポニスム」を見てきた。モネ、ドガ、セザンヌ、ゴーギャン、ゴッホなど西洋の巨匠たちが北斎から衝撃を受けて、取り入れた構図やデザインと思われる作品が隣に並べてある。そのおかげで、よくわかったことがある。彼らが何を受け取れて、何を受け取れなかったかが。
受け取ったのは、線描きで平面的で遠近法など無視しているのに、見ている人間が印象深く感じたものだけを描いている絵の持つ魅力、高い観察力とデッサン力、事実にとらわれない絵の持つ自由を100%発揮した手法、今までのようにすましている人間を描くのではなく、人間臭い表情を題材にしたこと。受け取れていないもの、それは北斎の自然観と生命観。残念だ。天才たちに受け取ってもらいたかった。
北斎は草や木、鳥や獣や魚、虫はフナムシに至るまで、命あるものすべてに興味を持って、スケッチしている。一生懸命生きている姿が愛しいのだ。デッサン力も超一流だ。
これらの作品に感動したフランスでは、絵や皿や花瓶などのモチーフとして、花や鳥、虫たちを模写に近い形で取り入れた。だが、あくまでモチーフやデザインであって、生きていない。一生懸命生きている感じがしない。声が聞こえない。
北斎の場合、美しい景色にも、鑑賞している人のほかに、必ず働いている人や移動している馬や人が様々な恰好と表情で描かれている。鳥や馬の鳴き声や一休みしている旅人の息づかいや職人たちの掛け合いの声が聞こえてくる。一生懸命生きている動物も人間も自然の一部なのだ。
これらの構図を取り入れた西洋の絵からは、描かれている人間以外、周り自然からの命のざわめきが感じられない。なぜか。それは彼らが描いている自然から生きものたちの営みを感じていないからだ。
北斎の田んぼが入った里山の風景は、にぎやかだ。カエルの声や水生昆虫の気配、畔に生えている草たちも目に浮かぶ。畔の補修をしている農民もいる。
北斎の絵の中の人間は、すましていない。生身の人間だ。書き物に疲れて富士山が見える窓の前で、思いっきり伸びをしながらあくびをしている旦那の姿には共感した。生きている人間そのものを描いている。
この点でも西洋の画家たちは影響された。今までお澄まししている姿かポーズをとっている姿しか描かなかった画家たちが、おなかを突き出してソファーでくつろいでいる女性や、風呂から出る動作中の女性、背中をそらして体をリラックスさせている踊り子など、生身の人間を描こうとしている。この展示にはなかったが、ゴッホの種まく人は、最も北斎の自然観に近い表現だと思う。しかし人間以外の生きものには意識がいっていない。
この違いは何だろう? 日本では風流に感じられる秋の虫の声は、西洋ではうるさい雑音に過ぎないとか。猿の群れの研究者も、日本の研究者は猿の顔の違いが分かり個体が識別できるが、西洋の研究者は顔の違いが見分けられないとか。本当だろうかと疑っていたが、本当かもしれない、と今回のことで思った。私が想像するに、これは一神教を持つ征服者の血と、八百万の神を持つ先住民族の血の違いではないか。一生懸命生きているすべての命を愛しく感じて描き出す北斎。宮崎駿さんは間違いなくこの血の継承者だと思う。
現在メダカのがっこうが取組中の種子法廃止についても、このようにまったく流れている血が違うほど、意識が違うアメリカ投資家や多国籍企業から、日本の種子を守らなければいけないのかと思うと、気が遠くなる。しかし、北斎が、ジャポニスムとして西洋美術に与えた衝撃と同じように、先祖から守り育ててきた種子は、みんなのもので、決して企業や個人の所有物にするのはおかしいという正常な感覚を呼び覚ますような衝撃を、彼らに与えることはできないものか。
宮崎駿監督、種子を独占しようとする人間の愚かさと地球の空気も土も作り、すべての富の作り手である光合成という技を持つ植物をテーマにした映画、お願いします。私が最も尊敬している人は、ナウシカ。彼女が私を育てたといっても過言ではないのです。
お知らせ:
3月20日13:00~17:30、参議院議員会館講堂(予定)で、種子法が廃止される4月1日を前に、活動報告会と日本の食糧主権を守るための種子も含めた議員立法の案や、ずっと日本語版を作成していたドキュメンタリー映画「種子 みんなのもの? それとも企業の所有物?」の初上映会と日本語版作成者印鑰智哉氏の講演会を行います。上映会は今後企画してくだされば、どこでもできます。
生きる環境と安全な食料に困らない日本を次世代に残したいと思っている皆さん、集まってください。