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中村陽子のコラム

2001年10月12日

命を育むことば

 先日、日木流奈君のお家におじゃまして、ことばの働きを体験しました。一日のほとんどを生きるためのプログラムに費やすため、その間ずっと聞く生活をしている流奈君は、話す時、ことばを選ぶのにとても慎重で、批判、否定、誤解を生む阜サをしないよう、時々考え込みます。そして選ばれたことばは、その場にいない人まで誰一人悪い気持ちにさせない、そしてずれてない、文学的阜サで美しいというのではなく、耳と心が聞きたいことばを聞いた心地よさを感じさせます。
 流奈君が発したことばから、一つも悪い想念が生まれない、それだけでなく自分の気持ちが理解された満足感と、問題が整理されたために漠然としたプレッシャーがなくなり、心が軽くなって体が動けるようになります。これはすごいことです。すべての行動のもとは想念、ですから世の中を良くするのも悪くするのも、生き物たちの想念の集合体、すると、流奈君がことばを使ってやっていることは、すべての生きものと共に生きる世の中を作るのに貢献していることになります。これは誰にでもタダできるすばらしい方法ではないでしょうか。


 ことばの価値を本当に知っているのも流奈君です。彼は胎児時代、3回の手術、脳細胞の異常、周りで起きていることをみんな知っていました。それでも見かけは、赤ちゃんで脳障害児、誰一人として一人の人間として扱ってはくれず、彼はただひたすら、世界への扉が開かれることを切に切に望みました。5歳の秋、彼はF.C.という50音ボードで会話をする方法を手に入れました。
 「愛する人と会話ができる。私は一生懸命文字盤を指した。一字ずつ確認しながら文章を作る作業は、30分以上かかった。あたかも、はめ絵がはずれたジグゾーパズルを完成させる作業のようだった。私が指す字は少しずれていたため、母は何度も確認していた。『わ・た・す・さ・か・な』母は気がついた。私が言わんとしていることを。魚を渡したかった。おいしい魚を、帰ってくる父に。母は歓喜して父を出迎えた。父は言った。『ありがとう、流奈、いただくよ。』私は満足だった。もっと、もっともっと伝わるのだろう。私は秋が楽しかった。私の言葉が始めて伝わった、その年の秋が。」
 愛する人に思いが伝わる喜びは人間の幸せの原点であり、そのことを可狽ノするのが、ことばなのです。ことばは世界への扉、自分を阜サし、愛と感謝を伝えるものです。不満や愚痴や批判や恨み言、などを浮オたら本当にもったいないことです。
 今恨みや悲しみといった想念が空気中に満ちているような気がします。9月9日と10日の夜、私は目をつぶると、今まで見たこともない怖い目をした、しかも目しか出していない不気味な人の顔が見えて、身震いしました。こんな時の私のおまじない、「オン、ニコニコニッコリ、ャ純J、ありがとうございます」を何回唱えてもその顔を笑顔にすることが出来ず、電気をつけて寝ました。
 9月11日のテロ事件は、私の中で、「もののけ姫」とダブります。大和の王朝との戦いに敗れ、地の果てに住むエミシの村に、突然、タタリ神と化した猪神が襲い掛かります。一族の長となるはずの少年アシタカが、矢を放ち命を絶ちますが、死の呪いを受けます。猪神は人間の鉄砲から発せられた鉄のつぶてを受け、苦しみと恨みのあまり、タタリ神となったのです。エミシの老巫女に、西の方で何か不吉なことが起きている、「曇りなき目」でそのわけを見極めれば呪いが解けるかも知れない、ということばを貰い、理不尽な呪いを受けたアシタカは、髪を切り、西へ旅立ちます。西国で彼は鉄砲と製鉄の村タタラが、山を削り、木を切って山の獣たちと対立しているのを見ました。どちらにもわけがあって、悪い人ではない、澄んだ目で見続けているアシタカは最後まで問い続けます、「共に生きる道はないのか」と。
 今回の事件でも、タタリ神と化した旅客機と被害にあった人たちは本当に理不尽でたまったものではありません。でも私はタタリ神が生まれたわけを、曇りなき目でつきとめたいし、共に生きる道を探したい、アシタカのように。
 「もののけ姫」では、西国の人たちの意識は、エミシ一族が大切にしている、人間が触れてはならぬ領域がある、といった自然への畏れがなくなり、シシ神をも平気で殺しています。現代の幕開けですね。今、自然への畏敬、つつしみを懐いた、人としての祈りのことばが、大切だと思います。
 自分から発することばから、悪い想念を生み出さないことができたら、それだけで平和に近づきます。魂の言霊は、全ての命を育みます。もともと、愛を伝えるために、ことばはあるのですから。