40年前、子どもの命を支える食に立ちあがった人たち ―高取保育園、麦っこ畑保育園のお話―
“いただきます―みそをつくる子どもたち”というドキュメンタリー映画の上映会をしました。食で子どもの生命力が全開することや、アレルギーやアトピーが当たり前に治ることを体験した親子を40年間も送り出している福岡県と神奈川県の2つの保育園の様子が報告されています。
福岡と神奈川で同時多発的に立ち上がった方たち、40年前に何か女性たちの意識が変わることがあったのでしょうか? 調べてみると、1970年代に入ってから生まれた子どもたちにアトピー性皮膚炎が現れ始めました。有吉佐和子さんの『複合汚染』(新潮社)の初版が1975年(43年前)に出版されました。オイルショックはその1年前の1973~1974年、それまでの経済発展の方法や方向に問題があることに気が付き始めた時期でもありました。
1968年開園の福岡市高取保育園の西福江園長は、「知育、体育の前に食育がある」という信念をもち、1970年ころから今まで感知しなかったアトピーと出会い、「和食に帰ろう」と思い立ちました。しかしそこには大きな壁がありました。それは、公立の保育園には現代栄養学に基づいた栄養素と食材の決まりがあったのです。肉や卵でタンパク質、牛乳でカルシウムなどの細かな決まりです。それを、味噌や納豆、豆腐や小魚で計算し直して基準をクリアーしました。これには同じ志を持つ優秀な栄養士さんの協力が必要でした。
食事の基本は、玄米と納豆、みそ汁、煮物や和え物、魚や豆腐などの和食です。西福江園長は子どもたちの身体にできるだけ良い食材を使いたいと思い、志を同じくする農家の方にも協力してもらい、無農薬の米や野菜、本物の調味料を使うことにしました。その中でも味噌は毎月100kg使います。それを最年長のクラスの子どもたちが毎月仕込みます。卒園前には味噌の作り方を次に伝えます。ここに入園すると、アトピーやアレルギーの子どもたちは数か月できれいに治り、親子ともども身を持って食の大切さを知らされます。この“いただきます―みそをつくるこどもたち”を上映したい方、ご覧になりたい方は、http://itadakimasu-miso.jp/ こちらをご覧ください。
1978年に神奈川県の麦っこ畑保育園の大島貴美子園長は、それまで勤めていた保育園の年代や障害で区別する保育に苦しくなり、いろいろな子どもがみんな安心して過ごせて、大きい子が自然に小さい子の面倒を見るような大家族の子育てをしたいと思い、農家の母屋で麦っこ畑保育園を始めました。8月のある日に伺うと、幅広い年代のお台所さんから卒園生のスタッフや夏休みということもあり、卒園生の小学生ボランティアまでが子どもたちのお世話をしていました。園長の理想の形です。
給食についてお話を伺うと、始めて10年たったころ、小児科医の真弓定夫の「子どもは裸で群れて育つ」という子育て論に出会い「これだ!」と共鳴して講演にお呼びしたところ、牛乳は母牛が自分の赤ちゃんのために出すオッパイで、人間は飲んではいけないとわかりびっくり。それ以来、牛乳を飲まなくなり、みそ汁や和食を基本に魚も切り身でなく1尾丸ごと食べられる大きさのものにしたそうです。食材も自然栽培の八百屋さんや生協や大地の会のものを使って作っています。真弓先生が、空気も水も加工していないものがいいということで、たき火はするけど暖房はしない、水遊びはするけど冷房はしていません。この取り組みは、2017年にドキュメンタリー映画「蘇れ生命の力」~小児科医 真弓定夫~ になっています。
上映したい方、ご覧になりたい方は、http://heartofmiracle.net/index.html こちらをご覧ください。
あれから40年日本の食は危険になる一方です。今や世界一の遺伝子組み換え作物や食品の輸入消費国。殺虫剤ネオニコチノイドは世界に逆行して緩和の一途、除草剤グリホサートの残留基準を0.1ppmから40ppmに引き上げたり、除草剤が効かなくなったので枯葉剤の残留基準も4倍~5倍にしたり。それらすべてを安全だという食品安全委員会。政府が国民を守ることを止めたのならば、むしろない方が国民に危機意識が芽生えていいかも知れません。
この時代に生まれ合わせた私たちは、なすべきことがたくさんあります。何から手を付ければいいのかわからない気持ちにもなりますが、前回紹介したコリン・キャンベル博士が正しいことを証明してくれた日本の伝統食の復活と、子どもたちに安全な食を提供することから始めたいと思います。
次回は、境南小学校の海老原栄養士と山田征さんグループが40年前に始めた武蔵野市の安全給食の始めから、現在武蔵野市の全校まで拡大して実施されている安全給食を支えている方たちのお話をします。