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中村陽子のコラム

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2003年5月12日

大潟村での感動

 秋田県の大潟村に行ってきました。前回ご紹介した緩速ろ過の研究者である中本信忠先生を囲んでの勉強会があったからです。大潟村といえば、八郎潟の中を堤防で囲んで作った大きな島で、海抜マイナス地帯。山から流れこむ水もなく、みんなの命を支える水への関心は、とても高いところです。
 大潟村で15町歩の水田を作っている相馬さんが、中本先生を島の染み出し水に案内しました。大潟村の周りは、湖がドーナツ型にあり、その水はお世辞にもきれいな水には見えません。その外湖の水が堤防に染み込み、40メートル内側の土手から染み出していました。この外湖からの水は、時速2センチ、約80日かかって土手から染み出してくるのです。
 中本先生が、これを見て、「この方法が一番いいんですよ。これは良い水です。」と言って一口すくって飲みました。私もマネをして飲んでみました。柔らかくておいしい水でした。相馬さんをはじめ大潟村の方々は、びっくりしていました。今までこの水が、とても人が飲めるような良い水だとは、思っていなかったのです。

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2003年4月15日

生命を活かす技術体系

 最近、緩速ろ過の浄水システムを知りました。これは、200年前のロンドンで発明されたもので、いたって簡単な装置です。大きな深いプールの底に土や砂を敷いて水を溜めます。すると、水面には糸状藻類が発生し、その藻類が光合成によって酸素を出し、生きものを養います。この環境下で砂底数ミリのところに発生するたくさんの微小な生きものたちによって、菌などを食べてもらい、水をきれいにするのです。

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2003年3月12日

稲を育てる気持

 「ふつう稲を生産するって言いますけど、生産するって、命あるものに使う言葉では、ありませんよね。子どもを生産するって、言いませんから。だから僕は、稲を育てることにしたんです。」 胸にジーンと来る言葉でした。
 この言葉の主は、琵琶湖の湖北地区で、不耕起栽培で稲を作っている柴田さんです。彼は、お父さんから、農業は将来性のある仕事ではないから、自分の好きなことをするようにと言われ、都会に出て、グラフィックデザイナーの仕事をしていました。仕事は順調でしたが、都会そのものの空気に馴染みきれずにいた時、故郷で田んぼをやっていた身内が次々と農薬による病気や突然死に遭い、彼は守り手がいなくなった田んぼを引き受けるため、故郷に帰る決心をしました。

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2003年2月22日

リーダーは要らない

 川の中を群れで泳いでいるメダカが、急に向きを変える、空高く編隊を組んで跳んでいたガンの群れが、急旋回をする、海でイルカや鯨など捕食される敵に遇ったイワシの群れが、球体になって転がるように被害を最小限にくいとめる、これらの見事に統制のとれた動きをする野生動物の群れに、リーダーはいないそうです。
 自然界で生きていくためには、全体の感性をフルに活用して、危険を一番早く察知した仲間の動きに、みんながすぐ連動して、身を守るのですね。もし彼らにリーダーがいて、残りがみんな従わなければならないとしたら、もっと危険率が高まり、動きもバラバラになるだろう、と言われています。

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